スラム街の一角でやたらと派手な看板を仰ぎ見る女の横顔は、こんな場所に佇むにはやけに清楚だった。 清潔感のある白いシャツの上からパステルブルーのカーディガンをはおり、薄手だが上質な布であるらしいのが一目でわかるフレアスカートから覗く脚はすらりと形がいい。 ほっそりとしたつま先を包むホワイトベージュのサンダルは、さすがにこのスラム街の洗礼を受けて埃っぽくなってしまったが、それでも涼やかな清楚さを損なうことはない。 肩に落ちる黒髪もここいらでは珍しい漆黒の瞳も、どこを切り取ってもこの街の下品さには見合わぬ上質さを兼ね備えている。 だが、やたらと顔色が悪かった。 黄色人種独特の妙な癖を持った白さがそう見せているのか。或いは、殆ど化粧気を感じさせない相貌の中にあって、そこだけ色を持ったかのように不自然な赤みを持った唇がそう見せているのか。 どちらにせよ瞼を閉じて転がっていれば、死体と間違えそうなほど青褪めている。 暫く店の外で看板を眺めていた女は、足元に蹲る黒い塊に視線を落とし、こちらを見上げているそれに促すように頷いて見せた。 彼女の白と対になるもののようにそこに蹲っているのは、一見すると犬、それもペルジアン・グローネンダールのように見えるが、体躯の大きさが通常より大分行き過ぎているようだ。 元々大型犬であるが、それを更に二回りくらいは大きくしたように見える。 しなやかな筋肉を内包した艶やかな黒が、身じろぎ一つせずに彼女の動向を全身で伺っているようだった。 いかにも賢そうなペルジアン・グローネンダール風の犬は、頷いた主に答えるように闇を切り抜いたような艶のある毛並みの身体を俊敏な動作で起き上がらせると、主を気遣うように寄り添って歩き出す。 首輪もハーネスもつけていないのに、主がどこへ行きたいのかわかっている風だ。 先ほどまで主がじっと見つめていた看板を掲げてる店の前に立つと、主が扉に手をかけるより先に、恵まれた巨躯を生かして身体で扉を押し開けた。 「…何の用だ、お嬢ちゃん。道に迷ったのならツーブロック先に国家の犬がたむろしてるぜ」 扉を潜ってきたいかにもこの街に不釣合いな人物を見ると、店の主はやや不機嫌そうに眉を寄せて皮肉っぽく言い放つ。 鮮やかな銀髪の青年が皮肉っぽい笑みを浮かべると、端整な顔立ちに相俟って一層シニカルな印象を与えた。 「あなたがダンテさんですね?」 デスクの上に投げ出されていた長い脚を組みなおし、品定めするような目で頭のてっぺんから爪先まで無遠慮な視線を投げかける。 外れだ。たとえ仮にこれが仕事の依頼だとしても、当たりに繋がる筈がない。 「便利屋」目当てならダンテでなくとも事足りる。そして、「デビルハンター」をお求めにしては、あまりにかけ離れた空気を身に纏っていた。些か人間離れした様子とでも言うか。 それは確かに、異形のものに関わる者が物騒な街にだけ生息しているわけではなかったから、上質な空気を纏う人間がダンテの元に「仕事」の依頼を持ち込むことくらいあってもおかしくはないのだが。 だがこれは外れだ。間違いなく。 ダンテはやる気のない手つきで顔の上に読みかけの雑誌を乗せると、ひらひらと黒いグローブに覆われた形のいい手を振った。 「人違いだ」 「あなたにお願いがあるの」 「だから人違いだって…」 「ダンテ!仕事の選り好みしてるんじゃないわよ!」 いかにしてこのお上品なお嬢さまを追い返そうかと、やる気のない態度でやる気なく考えているところに、聞き慣れた高音が響く。 ついでに、顔を覆って視界を暗く保っていた雑誌が強奪された。 眠るには明るすぎる、と、抗議を込めて眉根を寄せる。 「またきたのかパティ。大人の話しに首を突っ込むな」 「お願いはそんなに難しいことじゃないの」 「人の話しを聞け。もっとわかりやすく言ってやろうか?さっさと帰りなお嬢ちゃん」 パティに取り上げられた雑誌に多少の未練はあったが、構わず瞼を閉ざす。 話しは終わり。以上。聞く耳もたん。 そうきっぱり態度で示すと、もう一度ひらひらと手を振った。 これは外れだ。しかもいやな予感がする。酷くいやな。 何で俺が折れているんだ。 と、ダンテは見た目だけは豪華な(その実拾い物の)椅子にもたれながら、大きな溜息を吐いた。 パティが出したやけにこの事務所に不釣合いなファンシーなコーヒーカップには目を瞑ってもいい。 中身を飲み干すために必要なだけで、見た目で味が左右されるわけじゃない。どうせ中身も安物のドリップコーヒーだ。 実を言うとコーヒーはアメリカンよりヨーロピアンブレンドのほうが好みな上に、今出されたこれがノンシュガーブラックの極薄味アメリカンであることもこの際目を瞑ろう。 だが。 何故「お願い」とやらを引き受ける方向で話しが進んでいるのか、誰かわかるやつがいたら俺に説明してくれ、とダンテは内心文句を垂れていた。 実際口に出して言わないのは、言えば10倍になって返ってくるのが目に見えている上、それを更にやり返すのが面倒臭いからである。 「それで、この犬はフトゥロ。エル・フトゥロ。いい子だし躾は行き届いてるし、食べるものは自分で狩ってくるから大丈夫」 「だったら別にここに置く必要はないだろ」 多分5回目くらいになる拒絶の言葉にも、目の前の女、エル・パサド・ランタイム嬢は取り立てて耳を貸してくれる気配はなかった。 ヤマトナデシコと言う言葉がダンテの脳裏を掠めたが、これは多分その対極にあるんじゃないかと何度目かになる溜息を吐く。 誰かさんたちは大変好みそうなジャパニーズの血を引いているらしいが、反映されているのは外見だけで、中身はこれっぽっちも話しに聞く「ジャパニーズガール」とは程遠い。 依頼内容はこうである。 自分はもうすぐ死ぬので、この犬を預かって欲しいと。 願い下げだ。 山ほど金を詰まれても願い下げだ。 飼い主に似て随分と毛並みのよさそうな犬だし、実際本当に躾が行き届いているらしく、まるで置物のように身じろぎ一つせずそこに佇んでいる。 あまりに大きな犬なので最初は少し怖がって近寄らなかったパティだが、何をしても絶対に動かないから、と言うパサドの言葉に恐る恐る手を伸ばしてみた。 実際、本当に身じろぎ一つせずされるがままになっている。 子供の手の感触が心地いいから、と言うわけでもなさそうで、憎たらしいほど表情一つ変えずに、ではあったが。 これだけ躾の行き届いた毛並みのいい犬なら、どこぞのブリーダーにでもくれてやれば、それこそ尻尾振って飛びついてくるのじゃないかと思う。 なのに何故よりによってダンテの元を訪れるのか。 何かわけありなのはなんとなくわかる。空気で。 でなければ、こんな場所に危険を冒してまでわざわざ乗り込んではこないだろう。 何せここいらは、タクシーの運転手が仮に倍額積まれても絶対行きたくないとのたまうような場所である。 だが、どちらにせよ「お断り」であることに変わりはなかった。 少し埃っぽい事務所の空気を吸い込んで「と言うわけでお断りだ」と吐き出す。 「…パティさん、少し部屋から出ていてもらえますか?」 フトゥロの触り心地が気に入ったらしいパティは一拍分呼吸を開けたが、素直に頷くと事務所をあとにする。 もし仮に自分が言っても絶対ああ素直には出て行かないだろうと思うとやけに癪に障るが、パティがいないに越したことはない。さっさと裏口からお帰りいただこう。少々手荒なマネをしても。 「ダンテさん」 「ああ?」 「私は錬金術を学んでいます」 「へ〜え。そりゃご大層なこって」 「フトゥロは私が作りました。合成獣…キメラ、です」 へー。 と、気のない返事をする予定だったダンテは、言葉を飲まなければならなかった。 今まで置物のようにパサドの足元に蹲っていた黒い塊が、めきめきと音を立てて「変化」していく。 キメラ。存在を知らないわけじゃない。話しには聞いたことがある。錬金術とやらも。 人が神に近付こうとした学問。そして、人が悪魔を生み出してしまった結果でもあるそれ。 実際目にするのは初めてだ。 まさかこんなところでこんな風にお目にかかることになろうとは思ってもいなかったが。 「キメラ、ね」 人型を模した巨大な体躯は、2メートルをゆうに超えている。 一言で形容するなら「狼男」とでも言ったところか。全身を覆う艶やかな闇色の毛並みはそのままに、二本足で立ち、鋼のような筋肉に覆われた巨躯は凶悪そのものだった。 ぐるる、と低く喉の奥で唸り声を上げ、あたりの空気を揺らしている。 無駄にけたたましく吼えない分、いっそ威圧的な恐怖が辺りを包み込んでいるようだった。 勿論、ダンテが臆することはなかったが。 「ですから”人間”に預けるわけにはいかないのです。”人間”は彼より先に死んでしまうから」 「アンタもだろ、パサド」 事務所の扉を潜ってから、殆ど表情を変えることのなかった能面のような彼女の顔が、苦笑のようなものを浮かべる。 「その通りです。返す言葉もありません」 「その尻拭いを押し付けようって?」 「…はい」 Yes! 言葉に出さずに毒づく。やけに皮肉っぽい笑みがダンテの唇を彩った。 随分とあっさりした肯定だ。 作っておいて勝手に捨てる。あまりに身勝手な話しである。 「遺産は全て差し上げます。フトゥロには金銭面的な負担はかからないでしょう。彼が食べるのは”悪魔”ですから」 悪魔、または人の屍。生きている人間の肉は食べない、と言うより食べられないのだそうだ。 だが、問題はそこじゃない。気に入らないのもそこじゃない。 「断る。自分のケツは自分で拭いな。ガキの頃に教わらなかったか?」 大体、犬は性質が悪い。賢ければ賢いほど性質が悪いのだ。 そもそも金で動く男ではないので、遺産がどれだけあろうが関係ない。 逆に言えば、面白そうなら金にならなくても動く。 デスクに投げ出している長い脚を組み直すと、これ以上話すことはないとばかりに裏口を指差した。 「表から帰られるとパティが煩い。お帰りはそちらから」 『パサド、私は耐え難い。こんな男にお前が頭を下げること自体耐え難い』 と、今まで凶悪な唸り声を低く発していたフトゥロが、鈍い光を放つ牙が行儀よく並んだ口を開いた。 唸り声に似て凶悪な低音が地を這うように流れ出る。 だがその凶悪さには似つかわしくないほど、言葉は理知的であった。 「へーえ、お前言葉がわかるのか。だったらご主人様を連れてとっとと裏口から帰ってくれないか?」 『私のパサドが何故こそこそと裏口など使わなければならない』 誰のパサドでもいい。とにかくとっとと帰ってくれ。 半目で眺めやりながら追い払うように手を振る。 「よしなさいフトゥロ。犬にお戻り」 『パサド…!』 「もう決して人前で姿を変えてはなりません。それから、ダンテさんに従って。あなたの主はダンテさんです。いいですね?」 「勝手に話しを進めるな。俺は引き受けちゃいねえ」 「もう時間がないの。私には時間が」 そう返した声は思いの外鋭く、そしてここに来て一番真剣な声だった。 「あれ?パサドさんは?どうしてフトゥロだけ残ってるの?」 入っていいぞ、と声をかけたら、よほど犬の触り心地が気に入っていたのか弾丸のように舞い戻ってきたパティである。 パサドは裏口から帰って行った。フトゥロを置いて。 迷惑だ、一緒に帰れ。そう言ったが、フトゥロは何かに耐えるように一度ダンテから視線を逸らしたが、どうやらこの命令には従うつもりがないようで、動き出す気配はなかった。 首輪とハーネスをつけて引きずって行っても、きっとこの場所に戻ってくるくらいのことはしかねない。 全く面倒なことに巻き込んでくれたものだ、と忌々しげに眉根を寄せた。 パサド本人がこの命令を撤回するくらいしかこの状況から抜け出す手はないのだが、それは限りなくゼロに近い可能性であると理解していた。 「巻き込まれたもんはしょーがねえ。のってやるさ。が、 フトゥロは答えなかった。が、渋々と言った風体でしなやかな尾を一度だけぱたりと振る。 「OK!わかりゃーいいんだ。話しのわかる犬は嫌いじゃない」 だったらいっそ本来の飼い主の元に戻ることも承知して欲しいものだが、と思いはしたが、口には出さなかった。 「もうダンテと仲良くなったの?頭がいいのね。ね、パサドさんは?」 「帰った」 「何で裏から帰るのよ!」 「そっちのが近いんだとさ」 さらっと嘘を吐く。方便と言うやつだ。 別に裏から出て行けとか意地悪な事を言ったわけではなかったが、律儀にもパサドは表ではなく裏から出て行った。 犬を置いていくのなら、ダンテとしては表から出ようが裏から出ようがまるで関係のない話しなのだが。 まったく、ここは動物センターじゃないぞ、と眉根を顰める。 動物センターどころか、悪魔も泣きだすデビルハンターが営む店である。それこそ、「Devil May Cry」の名が泣くと言うものだった。 「じゃ、フトゥロは…」 「暫くだ。ちょっとの間。預かるだけ」 ぱぁぁ、とパティの顔が明るくなる。 ああ、面倒だ。だからいやだったのに。 嬉しそうにフトゥロと戯れ始めたパティの姿を視界に入れないように雑誌を顔に被せると、苦い溜息を落とした。 フトゥロが居座るようになって、二ヶ月ばかりが過ぎようとしていた。 季節すら移り変わり、挙句の果てにダンテの生活模様まで微妙な変化を齎していた。 パサドの言った通り、夜になれば自分で餌を狩りに姿を消していたが、それもほんの数時間でちゃんと帰ってくる。 散歩も兼ねているらしく、別にダンテが引っ張り出してやらなくても昼間は大人しく事務所の片隅で置物のように微動だにせず佇んでいた。 一見犬がいようがいまいがダンテの生活にはまるで変わりがないように思えるが、パティが「ちゃんとダンテを朝起こしてね。アレじゃ不健康でしょうがない」とか、「ピザ食べすぎだと思わない?」とかをフトゥロに零してくれたおかげで、朝は叩き起こされるわ、あーピザ食いたい、と思っても、何日かピザが続いていれば、注文の最中に容赦なく黒犬が電話を切ってくださるのだ。 「何の嫌がらせだ?」 『主の健康管理は本来私の仕事にはないものだ。だが、身を守るのが与えられた使命』 要するに、放っておいたら死にかねないんじゃないのこいつ、くらいに思われてしまったわけで。 いや、或いはささやかな嫌がらせであるのには違いがないのかもしれない。 ダンテを決して快く思っていないのは態度でわかる。 それに第一、今日からご主人ですよと言われて簡単に鞍替えできるのなら、あれほど忠実に主に仕えたりはしない。 表面上ダンテに従っているが、本当の意味で遂行している命令はパサドの言葉以外の何者でもないのだ。 そしてそれは、どれほど時間をかけても変わることはないだろう。仮にダンテにその気があったとしても。 寧ろ全くその気がないダンテに、心から従うはずがあってたまるかと言う話し。 「迂遠な嫌がらせだぜ、全く。おいパティ、そいつの前で愚痴零すな。真に受けるから」 「愚痴零されるようなことしなきゃいいんじゃない。ね、フトゥロ」 常は置物のように身じろぎしないくせに、こういうときばかり尾を振って見せたりするあたり全く持って憎々しい。 あからさまな舌打ちをすると、例の如く雑誌を顔に乗せて現実逃避を図った。 朝普通に叩き起こしてくれるものだから眠くて仕方がない。 そもそも夜中中悪魔相手に踊ってやっているのだ。朝くらいゆっくり寝かせろ。とはダンテの言い分。 肝心の悪魔とパーティーの仕事すら殆どない現状で使うには些か脆い盾ではあるが。 視界を闇に閉ざしてしまえば喧騒など気にならない。このスラム街に静寂などそもそも存在しないのだから。 「まったく、誰に頼まれたわけでもねえのに悪魔とダンスか…やれやれだぜ」 そう呟きながらも、伸びた前髪に隠されたサファイアブルーの瞳は好戦的な光を宿している。 無造作に腰に下げた、ハンドガンと呼ぶには些か常軌を逸した大きさを誇る二丁の拳銃も、身の丈ほどもある大剣リベリオンも、人が操るには骨がいるどころの話しではないはずなのだが、ダンテはその重さなど微塵も感じさせないほど易々と操る。 弾丸は宙を舞い、白刃は風を切った。 それはさながら円舞のように軽やかで、それこそ「ダンス」と形容するに相応しい。 ただし、鳴り響くBGMは優美なバイオリンでも軽やかなピアノでもなく、悪魔たちの断末魔の悲鳴だったが。 「どうした、もう終わりか?こっちはまだ準備体操も終わってないぜ?」 からかうような冷笑を浴びせながら取り囲む悪魔たちを眺めやる。 言っていることが虚勢でないことは、当の悪魔たちのほうがよくわかっていた。 地の底から這い上がるような悪魔たちの雄叫びは、今や人間を恐怖させるおぞましさは微塵もなく、それこそ空気を震わせてただ泣き喚いているようだった。助けを請うように、命乞いするように。 まったく、少しくらい梃子摺らせてくれるような骨のある悪魔はいないものか、いい加減雑魚ばかり相手にして退屈しているダンテは、悪魔たちに取り囲まれていると言う状況にお構いなしに肩を揉み解す。 緊張感の欠片すらない行動だった。 だが、次の瞬間、つまらなさそうな表情のまま流れるような仕草で大剣を地に突き立て、そして無造作に愛用の二丁拳銃、エボニー&アイボリーを構えた。 「たまには俺に剣を使わせろ」 皮肉めいた笑みを刻み、ハンドガンではありえない勢いで二丁の拳銃を速射する。 マシンガンも驚いて逃げ出すような速度だ。 それも、恐ろしく正確な。 でたらめに数撃てば当たる的な撃ち方ではなく、正確に的を見定めた上で連射しているのだ。 悪魔の悲鳴と怒涛の銃声のハーモニーは、けれど二秒足らずで終焉を迎える。 僅かな残響が響く一瞬の静寂のあと、あちらこちらで砂が崩れるような音が響いた。 棒立ちのようになっていた数十体の悪魔が、一斉に崩れ落ち、地に衝突するや否や砂と化したのだ。 その中心に佇むダンテの手には、既に銃は握られていない。とうの昔に腰に下げられている。 先ほどまで悪魔だった砂の塊を風が更に崩していく。 その風に煽られた血のように赤いロングコートを翻し、ダンテはその場をあとにした。 彼が気に入って着ているその赤いコートが翻るさまは、悪魔たちが目にした最後のシルエットだっただろう。 そしてそのシルエットは、人外の者たちにとって、まさに 「どうせ俺の前に現れるなら、もうちょっと骨のあるやつにして欲しいもんだぜ。腕がなまっちまう」 退屈そうに呟いた声を聞くものはいない。 そして、出来ることなら自分のリクエストは叶わないほうがいいのだと言う事を、ダンテ自身が一番よく知っていた。 本当はこんな風に、夜が静かであるほうが好ましいことも。 闇をざわつかせる存在は沈黙を守る。 赤い悪魔がその場を立ち去るまで。 やけに月の綺麗な晩だった。 悪魔相手のパーティーを終えて帰る途中、珍しく黒犬と鉢合わせた。 「よー相棒、デート帰りか?」 ここのところあまりに歯応えのない相手にばかりダンスを申し込まれていたが、今日の相手は少々楽しませてくれた。 おかげでダンテも無傷ではなかったが、負った傷も既に塞がっている。 何より暴れまわることが出来たおかげか気分がよかった。 黒犬は小さく鼻を鳴らすと、何も言わずに事務所のほうへと歩いていく。 帰る方向が同じだから仕方のないことだが、ダンテはそのあとを追うような形で歩く羽目になった。 「お前の教えてくれた巣、今回はそこそこ当たりだったぜ」 『それは何よりだ』 つっけんどんに返された声に僅かの苦笑を浮かべると、闇と孤独を一身に背負っているかのような背中を眺めやる。 「お前は創造主を恨まないのか?」 『パサドを?恨む理由がない』 「勝手な理由でお前を捨てる、勝手な主だとしてもか」 『何も知らないくせに知ったような口を利くな』 「そう言う横暴がいやなら、とっととご主人様の元に帰りな」 『…出来ない。最後の命令を私が破るわけには行かない』 これだから犬と言うやつは、と眉根を寄せる。 『何も最初から捨てるつもりだったわけじゃない。パサドは死ぬつもりなどなかったのだから』 「そりゃそうだろ。死ぬつもりで生きてる人間なんざいやしねえよ」 『違う、そうじゃない。パサドは自分と共に生きる存在が欲しくて私を作った。”人間”は先に死んでしまうから』 ピクリ、とダンテの指先が揺れる。 『鼻が悪いな、新たな主よ。パサドは”人”ではない』 「…どう見ても人間だった」 『違う!私を作るために命を削ってしまった。私と引き換えに人間に いつになく平常心をなくして吼えた犬に、ダンテは足を止めた。 まさか、ありえない。 アレはただの人だった。ダンテに悪魔がわからないはずはない。 だが、ただならぬ気配は感じたが、フトゥロを見てもそれがキメラだとはわからなかった。魔でもなく、ただの犬と呼ぶにはどうか、と言う程度の、違和感のような。 フトゥロの気配に隠れて、パサドのほうを見落としたと? いや違う、そうじゃない。違和感は確かに存在したのだ。パサド本人にも。 「キメラ?まさか…本人もキメラだったって?」 『BINGO。その通りだ頭の悪い主。キメラと言っても、パサドは醜い私とは違って本来の姿も美しかったがな』 まるで悪い夢でも見ている気分だ。 だったら。 だったらどうして作ったのか。 ”人”は先に死んでしまうから。 そう言うからには、置いていかれる悲しさを既に知っているはずなのに。 浮かべられた苦笑が脳裏に蘇る。 あれは、 (そう言う意味か) 先に立って歩く黒犬の背中を眺め、重い足を踏み出す。 だとしたらきっと、ダンテが思う以上に、浮かべられた苦笑の裏側の心中は複雑だったのに違いない。 余計な事を聞いた、そう思う。 こんな瞬間、自分が普通に人間の感情を持ち合わせている事を忌々しくすら感じた。 置いていくもの、置いていかれるもの、それを見ていなければならないもの。 一体誰が一番傷ついているのか、などと考えてしまう自分に嫌気がさす。 考えずにいられれば楽なのに。けれどきっと手放せないだろう。考える自分を。 どうして泣いているの? 何が悲しいの? 私にはわからない。何を泣いているの? そっと手を伸ばす。 指に触れる暖かい涙の理由がわからない。 「ごめんね、ごめんねパサド」 何度も何度も謝って、そして抱きしめる。随分と年老いてしまった「両親」。 自分が普通ではないことは大分前からわかっていた。 老いることがない。いつまでも変わらない。 どんどん老いていく「両親」。なのに自分だけが取り残される。時間の流れからも。 錬金術を学んでいた父は、悪魔の技術に手を染めてしまった。 それは「愛娘」が死んだから。 そして「パサド」が生まれた。 娘の代わりに。娘の姿を真似て。けれど魂は紛い物の別人でしかない。 そもそも、自分の意思も、人に比べればはるかに乏しい感情も持ち合わせてはいたが、それが「魂」と呼ぶに相応しいものであったのかすら怪しいものだ。 それでも命を刻んだのはパサドだけだったのだと言う。 だから、本物の愛娘が着ていた服を着て、していたように振る舞い、娘のフリをするのが役目だった。 そのために生まれたのだから、何も謝ることはない。それが自分に命を吹き込んでいるのだから、いっそ感謝したいくらいだった。 けれど、使命と命を吹き込んだ両親は死んでしまった。 莫大な遺産と、膨大な時間を一人で過ごす孤独だけを残して。 仕えるものが何もないと言うことは、すぐにパサドを不安にした。恐怖に突き落とした。 自分を必要としてくれる誰かを求めた。 そして、一人の人間と恋に落ちた。正確には、パサドにはその感情はよくわからなかったのだが、男が「傍にいて欲しい」と自分に望むことは嬉しいことだった。 けれどそれも誤りだった。自分は老いない。いつまでも若さを保つパサドを男は受け入れてくれたが、結局自分を置いて死んでしまった。 ああ、人じゃ駄目なのだ。 そう思った。 だが悪魔も駄目だった。 人間如きの手で作られたキメラなど、誇り高き悪魔が受け入れるはずはない。 神に類するものは、哀れみこそくれたかもしれないが、手を差し伸べてくれるほど優しい存在なら、世界はこれほど混沌にまみれてはいなかっただろう。 だからパサドは、父が残した研究を必死で学んだ。何年も地下にこもり、来る日も来る日も錬金術の事だけを考え続けた。 皮肉なことに時間はいくらでもあった。眠らなくても食べなくてもすむ身体のおかげで、何にも煩わされず、何にも邪魔されず、ただ錬金術を学ぶことが出来た。 そして漸く、理解したのだ。キメラを作る方法を。 「ああ…お前に同じ苦痛を与えてしまうなんて…」 自分の命を絶つ方法をこそ探すべきだったのだと、今更気づく。 従うものとして作られたパサドには、自ら命を絶つと言う概念すらなかったのだ。けれど今、こうして命が費えようとしているこの瞬間になって初めて、自分の進んだ道の誤りを思い知る。 もう起き上がる力さえ使い果たしたその顔は、血の気が失せ、既に死人のような色をしている。 キメラとは言ってもフトゥロのように典型的な獣人ではない。 ほぼ人体練成に近い、より「人間」のように作られたパサドには、悪魔を狩るような力もなければ、ごく一般的な人間としての能力くらいしかなかった。 人間と違うのは、老いないこと、食べないこと、眠らないこと。 止まった時の中に置き去りにされた人形。それがパサドなのだ。 その時が止まろうとしている。永久に。 計算外だった。ただ、自分と同じ「もの」に傍にいて欲しかった、それだけだった。 たった一人で過ごすには、あまりに長過ぎたから。 なのに、漸く寄り添っていける「もの」を作った瞬間、散々願った本物の人間になってしまったのだ。 どうして。 どうして両親が死んだときに訪れてくれなかったのか。どうして添い遂げる相手が出来たときに訪れてくれなかったのか。 何故今なのか。 「神よ、呪われろ」 呪いの言葉を天に吐きながら、何があっても乾いた輝きを持っていた黒曜石の瞳から一筋の涙がこぼれた。 ずっと泣けなかった。泣くと言うことがどういうことかわからなかった。けれど今ならわかる。 泣きながら詫びた「両親」の心も。 けれどそんな今この瞬間でも、やはり生れ落ちたことには感謝している。恨んでなどいない。 寧ろ、命は尽きるものだと身を持って知った今だからこそ愛しい。自分が生きていると言うことが。 「泣かな…いで…、とうさま、かあさ…」 そしてそれきり、パサドは動かなくなった。 黒曜石の瞳はただのガラス玉のように輝きを失い、つい先ほどまで彼女が息づいていたのだと言う事を今更思い知らせる。 そして、半瞬置いて彼女が住んでいた屋敷そのものもひっそりと息を殺したように静まり返った。主の死を悼むかのように。 「おい待て行くな!」 ここのところ何故か狩場がかち合っていたダンテとフトゥロは、お互い忌々しそうに相手を見やりながら別々の悪魔を狩る、と言うような事を続けていた。 ダンテが「どっか行け」と言えばフトゥロは従うのだろう。形ばかりは。 けれど、それとわかっていながら命令するのはなんだか気分が悪かった。 だったら目の前で相手より多く、相手より強い悪魔を狩ればいい。 今日もそのつもりで愛用の改造銃、エボニー&アイボリーを引き抜いた。 その瞬間だった。弾かれたようにフトゥロが顔を上げたのは。 何があっても動じることがない犬である。ただ事じゃないのはわかっていた。そしてこの場に、フトゥロをたじろがせるほどの悪魔の気配は感じない。 直感だ。 パサドが死んだ。そう思った。 だから叫んだのだ。行くなと。 けれど、当然フトゥロがダンテの声に耳を傾けるはずがない。 見なければ、知らなければ、もしかしてと思っても信じることが出来るのに。生きていると。一人じゃないと。いつか迎えがくるのだと。 「…くそっ、だからいやだったんだ…っ!」 叫びながら、まるで弾丸のようにスラム街を駆け抜ける黒犬のあとを追う。 一時でも飼い主を任されたからには、最後まで面倒を見なければならない。 押し付けられたのだとしても、最終的に拾ったのはダンテだ。 この結果を理解しながら、回避手段を取らなかった。 見なければ、知らなければ、信じていられる。待つことが出来る。 自分なら殺してやれる。もしも万が一のときは。万が一、取り残していかなければならないような事態に陥ったのなら、殺してやれる。せめて1秒でも自分より先に。 知ってしまっては、見てしまっては、待つことなど出来ない。一人でいることなんて、耐え難い。 スラム街を抜け、表通りの綺麗な街並みも抜け、そして郊外にある鬱蒼と茂った森に足を踏み入れる。 こんな場所があったのかと思うほど緑を多く残したその場所に、その館は聳えていた。 『パサド!パサド!』 主の名を呼ばわりながら狂ったように駆け抜ける黒犬が哀れだった。 もう応えの声がない事を誰より知っている筈だから、余計に哀れだと思った。 帰れないのだ。昨日までの日常には。 食事はいらないのだと何度言っても毎度パティが買ってくるドッグフードを、辟易した顔で一応口にしていたフトゥロも、笑いを噛み殺しながらそれを見ていたダンテも、子供らしい笑顔で犬の首に纏わりついていたパティも、もう二度と巡ってはこない。 知らなければ、見なければ戻れる日常。止まってくれ、行かないでくれ、と祈るように心の内で何度も繰り返す。 けれどわかっていた。フトゥロは止まらない。あの日常は戻らない。 だから犬は嫌いなのだ。 一度決めた主人を変えない誇り高い生き物だから。 『ああ、パサド…』 犬が足を止めたのは、館の地下の、やたらと頑強な石造りの部屋の前だった。 しゃがれた声で主の名を呼び、もう答えない主の元にのそのそと歩み寄る。 確認するのが怖いのに、確認せずにはいられない。そんな重い足取りだった。 パサドの瞳は天井を見つめたまま動かない。 元々人形のような顔だと思っていたが、本当にただの人形になってしまった。 『パサド、パサド、パサド』 壊れたレコードのように何度も何度も名を呼ぶ。 見ていられない、そう思いながら、目を逸らせない。 あれは自分だ。色んなものに置いていかれたダンテ自身。 「…店で迎えを待とうぜ、相棒」 答えないとわかっていながら、その背中に声をかける。 「いつかお前のパサドが迎えに来てくれるさ。終わる時に」 『新しい主よ、私は待てない』 いつもより一回りも二回りも小さくなってしまったように見えるフトゥロは、背中越しに振り返って呟いた。 常は威厳ある低音も、項垂れて掠れている。 「待てるさ。何、あっという間だ」 『頭の悪い主よ、お前が思うほど私は気長ではない』 皮肉めいた笑みのようなものを口元に浮かべたフトゥロは、パサドが見上げている天井に一度だけ視線を向けると、そのまま首を振り下ろしてパサドの喉笛を噛み切った。 血飛沫が上がる。 まだ生きているものを切り裂いたかのように。 艶やかな漆黒の毛並みが、血に濡れて闇の中で鈍く光る。 『死肉を食むのは初めてだ。どうだ半魔の主よ。人を食む私が、昨日までの日常に戻れると?』 「よせ…」 『いずれ血肉を求めるかもしれん』 「やめろ、」 『パティを食らうかもな』 出来ることは、これだけなのか。 初めてフトゥロが自主的に自分に求めてくるのが、これなのか。 ぎり、と拳を握り締める。 「どうやらご主人様のお迎えを待つ気はないらしいな、できの悪いワンちゃんだ。躾がなってねえぜ」 『パサドの躾は行き届いていたさ。私がお前を人としても主としても認めていないだけ』 言い終わるより先にフトゥロが姿を変えていく。ごきごきと骨が軋むような不気味な音を立て、全身を覆う筋肉が鎧のように隆起する。 手先を覆う鋼のような爪が、鈍い光を放った。 一瞬、二瞬、緊迫した空気がダンテとフトゥロの間に流れる。 反射的にエボニーに手を伸ばしかけたダンテは、思い直してリベリオンをその手に握る。 「謝るなら今のうちだぜ、ワンちゃん」 皮肉を口にしているが、伸びた前髪に隠れた瞳には、からかいの色は灯っていない。寧ろ鮮やかなサファイアブルーの瞳は沈んだ色をしていた。 『元々お前は気に入らなかったのだ、主よ!』 吠えながら、巨躯に見合わぬ俊敏さで跳躍する。 「そうかい、気が合うな。俺もお前が気に入らないよ」 ありったけの力をこめて前に繰り出したリベリオンが、その フトゥロは避けることもなく冷たい刃を受け止めた。 わかっていた。知っていた。フトゥロに殺気がない事を。 それがただのポーズであった事を。 せめて最後に噛み付かせてやればよかったか。そんなくだらない事を考えながら、リベリオンを通して伝わった肉を断つ感触に汗ばんだ手を、きつく握り締めた。 『主よ、出来の悪い主よ』 「お前ほど出来は悪くない」 『ああ、そうだな主よ。悪くない日常だった』 呟くように言った黒犬は、首だけを必死でパサドのほうへ向ける。 そして愛しげにその肉を食み、動きを止めた。 「…俺もだ、相棒」 「えー?そんなに急に連れて帰っちゃったのー?」 「何度も言わせるな」 翌朝、いつものようにドッグフード持参でやってきたパティにフトゥロ不在の理由を根掘り葉掘り聞かれ、パサドが連れて帰ったとだけ告げた。 別に知らなくてもいい。本当のことなど。実際、パサドのところへ「帰った」のだから。 「あーあ、残念。教えてあげたいことがあったのに」 「犬にか?」 「そうよ。あのねダンテ、知ってる?エル・フトゥロってスペイン語で”未来”って意味なのよ。あたしもレディに聞いて知ったんだけど。教えてあげたかったなー、素敵な名前だって」 いかにも残念そうに肩を落とす。 「とっくの昔に知ってるだろ。名付け親が教えてる」 「あ、そっか。それもそうね」 「大体、エル・パサドは…」 言いかけて言葉を飲んだ。 「パサドがどうかした?」 突然言葉を飲んだダンテに、訝しげな視線が向けられる。 パサドは過去を意味する言葉。フトゥロと対になるもの。 表情の変化がやけに乏しかった白い面影は、過去に相応しくモノクロームで構成されている。 それはなんだか、やけに物悲しいものだった。 パティの中の記憶まで色褪せることはない。今を生きていた鮮やかな彼女を覚えていればいいのだ。 「…そう言う意味を考えて名前つけそうなやつだっただろ」 「そうね。頭よさそうだったもんね。フトゥロも頭よかったし。ダンテ、ホントは少し寂しいんでしょ」 「せーせーするね、煩いのが減って」 あ、そ。冷たいんだから。そうごちて、フトゥロが使っていた簡易ベッドや餌入れを片付け始める。 「そうさパティ。俺は別にお綺麗でもお優しくもない」 「自分で言って自分で傷ついたような顔しないの。餌箱は置いておこうか。全部片しちゃったらホントに寂しいわ」 「お前、子供をあしらうように…」 「あのねダンテ、ホントに冷たい人はそんなこと自分で言ったりしないの。それに、」 感傷に浸ってフトゥロが起こしてた時間に起きてきたりもしないのよ。 やけに大人びた口調でそう言って、いつもの癖でドッグフードを皿に盛ってしまったパティは、「ここまで再現する必要はなかったか」とさすがに少し寂しそうな顔をした。 「…そのまま置いとけよ」 「やっぱり寂しいんじゃない」 「別に」 それはただの嫌がらせさ。 そう言ってデスクの上に長い足を放り投げたダンテは、まずは心行くまでピザを食おうかと、マホガニー製のデスクに踵落としを食らわせた。 反動で浮いた受話器をつま先で器用に蹴り上げ、弧を描いて丁度手元に落ちてきた受話器を取り、コードごと電話を手繰り寄せる。 いつかデスクが真っ二つになるんだからね!といつもの調子で怒鳴っているパティを脇目に、やっと少し日常らしい空気が戻ったかと苦笑を浮かべた。 あの犬の気配は暫くここに漂うだろう。 そしてその飼い主と賢い黒犬の記憶は、いやになるほどしつこくダンテの中に留まり続けるに違いない。 それでも。 (そう簡単に死なせてはやらないさ、相棒) 誰かの記憶にある限り、存在は死なないから。 これもささやかな嫌がらせ。 「…やっぱ片せ。ドッグフード臭ぇ」 |
オリジナル要素ありのSSって雰囲気でいいんですかね(爆) |
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